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偽造文書 [たまごの本棚]

国書偽造

国書偽造

  • 作者: 鈴木 輝一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/03
  • メディア: 文庫

朦朧としたまま書くです。昨晩、徹夜してしまったですがな。この本のせいですで。

読みはじめたら止まらんようになって、目覚ましがなってようやく気づいたですがな。

ほんに罪な本、ですわいな。

 

高校の頃、国語の先生が、

「読書のたのしみっちゅうもんは、片付けないけん仕事があるのに、

 つい気になる本を手にしてしまい、そのまま明け方まで読み耽っちゃったがな、

 ちゅう経験のないモンには、到底わかるまいや~」

ちゃなことを言っとんさったことがあっです。(MK師のことですで、SB君)

 

そんときは、「フーン、そげなもんかいな、別にわからんでええけど・・・・」

ちゃなんで、暢気に思っただけでしたけど、

まさか自分がそげなことなるとは思いませなんだ。

宿題せずに本を読む、仕事をほっぽり出して本を読む。

おかげで人生大狂いですがな。ほんにロクなことがないわい。

先生も読書のたのしみばっかしでなしに、弊害も教えてくれないけんがな。

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衝動買いの悲喜劇。 [たまごの本棚]

すまたまさんに教わった機能を早速使ってみるですでー。
こげに簡単にできるもんだったんか・・・・。タマゴ、アホでした。
記念すべき?第1回としてご紹介するのは、鹿島茂さんの『衝動買い日記』ですで。
特に理由はないですけど、たまたま昨夜読んどったもんで。

本屋さんに行くと、思いがけん本をみつけて、つい買ってしまったりするのは悪い癖ですで。
家にもまだ読んどらん本がよぉけあるっちゅうのに。(たぶん一生かかっても読めんぞ)
なのに、なんでまた買ってしまうかっちゅうと、
たとえば「この本を買うことによって、昨日まで自分と違った自分になれるでないか」
ちゃな青臭い願望もあるような気もすっです。(実際にはなんも変わらんけど)
でも、買った瞬間の悦びというのは、やはりあって、それがために、
ついつい衝動買いというやつをやらかしてしまうんでしょうなぁ・・・。

鹿島さん、女子大・仏文科の先生ですが、
フランスを中心としたエッセイ・評論でよく売れている人ですね。
この人の古書好きは有名ですが、(ちゅうか、ビョーキだで、あら)
この本でも「挿絵本」「本棚」という章で、その一端を垣間見ることができるです。
「挿絵本」ちゃな高い本には縁のないタマゴですけど、
「本棚」は身につまされるもんがありましたなー。
安い本ばっかしとはいえ、家のあちこちに本があっですけ。(推計1万冊、ちゅうことにしとこ)
なにしろ家が狭いですけ、収納に困るですがな。本棚にはもう収まりきらんし。
枕元に堆積した本の山に、ウズラが時々キレて、強制撤去したりすっです。
新しく本棚を買えばAですが、そげなスペースはもうないし、
だいたい本棚を買うくらいなら、その分だけ本を買いたい、ちゃな調子ですけ、
ひとーつも片付かんです。
このまま本を買い続けたら、どげなことになっだらぁか、と時々思ってはみるですが、
こういうことに限って、すぐ思考停止する癖があって、また本を買ってしまうです。(ええかげんにせ)

鹿島さん、物識り博士みたいなとこがあって(知識はあるけど実践が伴わんちゅうこと)、
それがイカンなく発揮されとるのが、「男性用香水」の章。
デパートの化粧品売場で、香水のウンチクを語りつつ、実は使ったことがなかった鹿島さん、
その後、すっかり実践面でも達人となられた模様。
シャネルの「プール・ムッシュー」「エゴイスト」「エゴイスト・プラチナム」など、
タマゴにとっても懐かしい名前が登場すっですで。
タマゴ、香水ちゅうもんがけっこう好きで、自分でも買ってつけたりした時期もあっですが、
今ではすっかりごぶたさ、じゃなくてごぶさただ。
よって、買いためた男性用香水(といってもオードトワレだけど)も部屋の片隅に鎮座するのみ。
ところが、あるとき気づいたら、これがゴソッと減っとった。
プレゼントでもらってリボンのついたまま未開封だったやつも消えとる。
どーも、ウズラが勝手に処分したらしい。なんちゅうことをすっだいや。
今では、使いさしの「エゴイスト」とディオールの「ファーレンハイト」が残るのみですで。
たった今、久しぶりに「エゴイスト」をシュッと噴いて匂いを嗅いでみましたが、Aですな~。

ところで、トワレでなくて、香水の方ではちょっと苦い思い出も。
化粧品売場に立ち寄った際、戯れにシャネルの女性用香水を手首にチロとつけてみたです。
そしたらば、これがまたキョーレツですがな!匂いがごっついプンプンする。
慌ててトイレに駆け込んでゴシゴシ洗ったですけど、とれん!あのときはほんに焦りました・・・・・。
ちなみに、マニキュア塗って、焦ったこともあっです。(やっぱし変態か?)

巻末の百瀬博敏さんの友情あふれる解説も、ぐっどですでー。

衝動買い日記

衝動買い日記

  • 作者: 鹿島 茂
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/05
  • メディア: 文庫


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本屋通いの解毒剤 [たまごの本棚]

最近、少しツイテない。
本屋さんに行っても、目当ての本が見当たらない。
あの本屋さんの隅っこの棚の下から三段目にあるはずだ、と勢いこんで行くのだけれど、
ついこの前まで鎮座していたはずの本が忽然と姿を消している。
そんなことがこのところ、立て続けにあった。

文楽の越路太夫の芸談めいた本もその一冊。
見かけたときに買っておけばよかった、とホゾを噛んだが後の祭り。
薄田泣菫の「茶話」2冊をいよいよ買うぞ!と張り切ったらば、
収録されている冨山房百科文庫自体が棚から全て消え失せていた。
「相棒」で小日向さんが唱えていた呪文?が気になって、
たぶんあれはラテン語だろう、とメボシをつけ、
長い間気になりつつも買うところまで踏み込めなかった研究社の「羅和辞典」を求めようとしたら、
これまたどこに消えたか、影も形もない。
いずれにしても、単なる趣味に違いないので、入手できなかったからといって、
特に困ることはないのだけれど、やっぱり少しガッカリしてしまう。
もちろんアマゾンはじめオンライン書店でいつでも手に入れることはできる。
けれど、本屋さんで買いたい本というのは、やはりあるものだ。

こうして目当ての本の思いがけぬ失踪に落胆してしまったときは、
せめて心の隙間を埋めようと、店内をぐるぐる廻って、
あれこれいろんな本を手にとってみるのだけれど、
そういうときに限って、これ!と思うような本に巡り合わない。
その日求めようとして果たせなかった本の幻影がちらついて、
他のどの本を見ても、物足りなく思われるのかもしれない。

そんなとき、慰めとなるのが雑誌である。
気にいった雑誌が見つかると、失われた本の幻影も少しは薄らぐ。
けだし、本屋通いの解毒剤である。
先月はふと手にとった関西系の雑誌「ミーツ・リージョナル」が大層面白かった。
本に関する特集だったので少し心を動かされて試しに買ってみたのだが、
特集が興味深かったのは無論のこと、、他の記事にも惹かれるものがいくつもあった。
特に内田樹さんと平川克美さんの「東京ファイティング・キッズ リターンズ」は
たいへん面白く、思わず古書で前著(「東京ファイティング・キッズ」)を注文してしまった。
雑誌のよいところは、やはり目当ての記事だけでなく、
思いがけないところに目から鱗のようなことが載っているところだ、と再確認した次第。
(ただし、せっかく落ちた鱗もすぐに再生するのだけれど)

先月の「新潮」にもそんな箇所があった。
これは大江健三郎さんのロング・インタビュー目当てで買ったのだけれど、
それよりも心惹かれてしまったのが都築響一さんの現代詩についての連載。
連載第12回になるのだそうだけれど、
いつもいつも文藝雑誌を買っているわけではないし、
それに現代詩というものに必ずしもいい印象ばかりを抱いているわけではない、
おまけに連載タイトルの「夜露死苦現代詩」の前半がいかにも田舎の暴走族まがいなので、
これまでついつい通り過ぎてしまって読んでみたことはなかった。
しかし、この第12回は引き込まれるように読み耽ってしまった。
まずは副題の「少年よ、いざつむえ あるいは輝ける言葉のサラダ」に惹かれたのである。
より正確を期せば、「いざつむえ」とはなんだ?と思ってしまったからである。

この第12回は、友原康博さんという戦後生まれの詩人について書かれている。
友原さんは中学の頃、精神分裂病(統合失調症)を発症し、今も病院暮らしだそうである。
「いざつむえ」という言葉は、彼が中学生の頃に書いた「苔国」という詩に出てくる。
「作用の/仕天は/作極の/しずみを/焦す/いざつむえ」。
これだけの詩である。なにがなにやらワケがわからない。しかし、惹かれた。
現代詩にありがちな奇を衒ったところが感じられない。
肉体が脳髄を刺激して手が勝手に動いた、といった趣きの詩である。

都築さんはその後の友原さんの歩みやいくつかの詩を紹介していくのだが、
最後に「母の質」という中学3年のときの詩が友原さんの原稿とともに転載されている。
これは「母の/質/いつも/いらいら/して/いる」ではじまる長い詩である。
自分の病気によって、母が苦しみ、それが家族に影響を及ぼす、
だから自分はしっかりしなければいけない、といった内容が独特の統語法で綴られる。
最後は
「だから/家庭を/もり/かえして/行き/つづける/行為を/無視しては/なら/ない/ことを/
私は/じ覚し/母の/乱れを/早く/みつけ/出して/母を/きっと/やさしく/して/あげたい」で終わる。
読み終えて、しばし呆然となった。
情動に適した言葉が見つからなかったからだが、見つけようとも思わなかった。
ただ呆然としているだけでいい、と思った。

都築さんは、友原さんの現況も紹介していられる。
現在56歳の友原さんは、以前書いた詩について、
「あんなの(いざつむえ)は、くだらん詩です」とおっしゃっているらしい。
詩よりも、早く退院して働きたいという希望をお持ちのようで、マスコミ志望だそうである。
事件記者になって新聞に記事を書きたいというのが友原さんの目下の願いで、
あちこちの会社から募集要項を取り寄せてみるのがお好きなようだ。
カラオケの持ち歌は「高校三年生」と「星影のワルツ」、
愛読誌はなんと「ミーツ・リージョナル」と「スウィング・ジャーナル」だそうである。
「高校三年生」。時々カラオケで歌ったことがある。年配のお取引先には大いにウケた。
スナックのカウンターでスクラム組んでみなで声を和したことさえあった。
おまけに「ミーツ・リージョナル」!これは嬉しい。
「母の質」の後に友原さんの近影が掲載されていた。
穏やかで澄んだ表情。美しい。

「いざつむえ」は「さぁ、行こう」に近い意味だそうである。
ツイテないとコボすばかりでなく、「いざつむえ」!どこへ?もちろん本屋さんへ。
         
                          *『いざつむえ 友原康博詩集』 編集工房ノア刊。


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建築界の柏戸 [たまごの本棚]

昨晩は失礼こきました。
アマゾンから届いた本をついつい読み耽っとりましたがな。
なにを読んどったかというと、これですで。

副題の「賊軍の将」っちゅうのがええでしょ。
前川國男といえば、ル・コルビュジェの弟子とか東京文化会館くらいしか知らんかったですが、
(あと紀伊国屋書店本店ビルも)
まぁ、いろいろ設計しとんさるですね、やっぱし。

これまでもなんとなく丹下健三を長嶋・王とするなら、前川國男は野村克也、
ひまわりと月見草、みたいなイメージがあったですが、
この本を読んで、改めて、大鵬に対する柏戸、ちゅう感じがしたです。
丹下氏、はじめの3年間ほど前川事務所にいらしたそうなので、
ますます柏戸の胸を借りる若き大鵬という感じがしたです。
この本での丹下評価は「変わり身が早い」ということになっているので、
どんな型でも相撲の取れる大鵬、ちゅうことでコジつけてみたです。
        この本の著者はかなり前川贔屓で、丹下氏へのルサンチマンがそこかしこに・・・・。
タマゴも、どちらかといえば柏戸好みなので(いったい何歳だい)、
ついつい前川贔屓になってしまうま。

倉吉市庁舎が丹下健三の設計というのはよく知られた話ですけんど、
どーもこの本によると鳥取県にもひとつだけ前川設計があるらしいですで。
でも、ちょっと見当がつかん。
米子公会堂は村野藤吾だし、皆生温泉の東光園は菊竹清訓だし・・・・。(どっちの建物も好き)
いったい鳥取のどこに前川設計があるんか?
本棚のどっかに『鳥取の建築』みちゃあな本があるはずなんで、調べてみやーかと思うですけど、
またこれがどこにあるかわからんですがな。
インターネットでちょこちょこっと検索してみたですけど、どーもヒットせん。
うーん・・・知っとんさる人があったら教えてつかーさい。

タマゴ、家を建てる甲斐性もないクセに、どうやら建築好きのようで、
うーん、これは一種の代償行為でないか、と思ったりするです。
いずれにしても、ズブの素人であることに間違いはないので、
「前川國男=柏戸」ちゅう見方もトンチンカンかも知らんです。
okkoさんの御義兄さまのご教示をお願いしたいところですで。

ちなみに、この本によると前川事務所は1944年に鳥取分室を設けて、
山陰工業という会社と組んで、木製グライダーの製作やら木製プレファブ住宅を造っとったらしい。
山陰工業から設計を頼まれた工場というのが、鳥取の「胡山(こさん)」ちゅうとこにあった、って
書いてあったですけど、そりゃいったいどこだいな?「胡山」ちゃな地名、知らんがなー。
タマゴがよく行く「湖山ストア」ある「湖山(こやま)」の間違いでないか、と思ったですけど、
調べとらんので、不明のまま。「胡山」はいずこ?


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備えたけれど、ウレイあり。 [たまごの本棚]

 今、鳥取では「全国生涯学習なんたら」通称「まなびピア」という催しを開催中ですで。

昨日、一昨日は秋篠宮殿下ご夫妻もお見えになっとったです。

こら、日の丸の小旗を持って馳せ参じなイケン!これぞ皇国臣民の心意気!と昨日駆けつけたのですが、殿下はとっくに会場を後にされてました・・・・。(臣下としての自覚が足りんな)

会場で最も目を惹いたのは食いモンコーナーで、串カツや麺類、キャベツ焼きに長蛇の列が形成されとりました。タマゴとしては「やまいち」のご主人製作のキャベツ焼きにヒジョーに関心があったですが、腹一杯だったので断念しました。(催しのコンセプトとかなりかけ離れたところに関心を寄せてしまったです・・・)

断念したところで、流れてきた音楽に誘われてステージに行ってみると、大正琴で「風雪ながれ旅」をやっとりました。(大正琴の音色に惹かれるとは、やはり大正生まれかもしらん)

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おわりの雪 [たまごの本棚]

この前、「男だけのクリスマス」という実に季節はずれな記事を書きましたね。
まだ暑いというのに、何を書いとるだいや、とタマゴも思いながら書いてしまいました。
なんでまた、クリスマスなどを連想してしまったかというと、
そのとき読んでいた本のせいなのですね。
ユベール・マンガレリの『おわりの雪』。(LA DERNIERE NEIGE)

なんでまた、こんな季節はずれのものを読んでたかというと、
数ヶ月前にある雑誌でちょっこっとマンガレリ特集をやっていたのですね。
なんでも『おわりの雪』、フランスの翻訳小説としては、久々のヒットだったらしい、です。
マンガレリ自身も2003年(だったっけ?)にフランスのメディシス賞を受賞してるみたい。
そういえば、『おわりの雪』って、本屋さんで見かけたことがあったなー。
なんとなく、売れてそうな雰囲気だったけど、あまりそのときは興味が湧かなかった・・・。
なんて思って、特集も読まずにすっ飛ばしてしまったのですね。そのときは。

『おわりの雪』に出遭ったのは、甲子園帰りの梅田の紀伊国屋さんでした。
洋書コーナーで、ぼけぇと棚を眺めてると、ペーパーバックの背表紙に
《HUBERT MINGARELLI LA DERNIER NEIGE》なんて文字が。
ん?「最後の雪」・・・・って『おわりの雪』か?
で、棚から取り出してみると、おお、表紙の絵に見覚えがある。
特集で見た表紙じゃ。ふーん、スイユ社のポワン叢書なんかー。それにしちゃ、高いな。935円。
紀伊国屋さん、仏書と独書のバーゲンといいながら、こりゃ値下げしとらんのでないか。
でも・・・・面白そう・・・・よしっ、買ってみよ!買っておいて、冬になった読もっ!
というわけで買ったのですね。

で、冬用のはずなのに、どうして8月の末に読んでしまったかというと、
ホントは夏の終わりにはマルセル・パニョルの『父の大手柄』(LA GLOIRE DE MON PERE)を
読むつもりだったのですね。『マルセルの夏』という映画の原作らしい。
『マルセルの夏』、いつぞやお昼にテレビでやっていて、たまたまちょっとだけ観たのですね。
面白かった。でも、タマ妻と外出しなきゃいけなかったので、途中までしか観てないんです。
で、映画もいつかちゃんと観たいと思ってたんですけど、とりあえず小説を読んでみようと思って、
紀伊国屋ブックウェブさまに取り寄せ注文を出してたのですね。それがまだ届いてなかった。
そのツナギについ手にしてしまったのです、『おわりの雪』。

読んでみたら、ええでないの。こりゃ、いかにもタマゴ好みの小説でないの。
主人公の少年の名前は最後まで明かされないし、
病身のお父さんと、夜中に外出するお母さんの名前もわからないまま。
名前がわかるのは、少年が欲しがっている鳶を売っている古道具屋のオヤジと、
少年がアルバイト?に通う養老院(古めかしい言い方ですね)の管理人くらい。
                この管理人がいつも少年にコーヒーをごちそうしてくれるのですね。
なんだか、出てくる人がみんな影法師のような感じがする。
あー、それに犬が出てくる。年老いた雌犬ですね。養老院にいた老婦人が飼っていた。
ええのー、ええのー。短文の積み重ね。限られた語彙。間接話法。『異邦人』みたいじゃ。

というわけで、満足して読み終えたのですが、
例の雑誌の特集記事をもう一度開いてみると、ありゃ。
邦訳本の表紙、全然違うがな。スイユ版とまるで違う。
いかにも、海外小説好きの20代女性をターゲットにしてますよ、ってな表紙だ。
あれー?じゃ、紀伊国屋で本を手にしたとき、「おお、この表紙じゃ」と思ったのはナゼ?

どうも、タマゴ、以前に梅田の紀伊国屋さんに立ち寄ったときに、
この本を手にしてたようなのですね。記憶は曖昧ですけど。
そんときに、この表紙を見て「ええのー」と思ってたらしい。
で、なんとなくタイトルも記憶してたらしい。きっとそのときにはもう邦訳が評判だったのでしょうね。
しかし、前回紀伊国屋さんに行ったのは、ずいぶん前のことだぞー。
それほど印象的な表紙だったということか・・・。
それともタマゴが、大事なことはすぐ忘れるくせに、要らんことばっかり覚えているということか・・・。

折りよく、『おわりの雪』を読み終わったところで、
紀伊国屋ブックウェブさまからパニョルの『父の大手柄』が届いたのですね。
実にタイミングがよい。夏の終わりに読むにふさわしい本じゃ。
そう思いつつ、梱包を解くと、ありゃー!なんだいな、背表紙がツブレとるがな!
なんちゅうことをするだいや、紀伊国屋ブックウェブ。
でも。以前、乱丁本があったときは、わざわざ事前にメールで知らせてくれた。
ずいぶん丁寧な対応だったのですね、紀伊国屋ウェブさま。
ということは、こりゃ配送中にツブレんか。
たしかに今回は1冊だけだったので、いつもみたいに梱包材で包まれてなかった。
                          あの指でパチパチつぶしたくなるヤツですね。
うーん、そういうことか。ま、読めることには変わりないから、気にせずいこうか。
でも。それで気分が変わってしまったのか、結局、ほかの本を読み始めてしまいました。
こりゃ、来年の夏までお取り置きっちゅうことですかね。

というわけで(ってどういうわけで?)、すっかりマンガレリが気に入ってしまったタマゴ、
早速、紀伊国屋さんにメディシス賞受賞作『四人の兵士』(QUATRE SOLDATS)を注文しました。
届くのが楽しみじゃーっ。
マンガレリ、邦訳では今のところ、『おわりの雪』と『しずかに流れるみどりの川』があるようですね。
マンガレリの文章を呼吸できる訳者を得て、なかなかスグレモノらしいです。(未確認ですけど)


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クンデラの新刊 [たまごの本棚]

「うーん、わからん」。
思わず呟いてしまいました。
『すばる』という文芸雑誌の9月号を開いていたのですね。
文芸雑誌というのは学生の頃、帰省の新幹線の車内で読むにはわりと適当なものだったので、
けっこう面白がって読んでたんですけど、今となっては、ちょっと苦しい、ですね。
読んで不機嫌になることが多い、です。
ほぉ、と感嘆の溜息ひとつでもついてみたいのに、はぁ、と慨嘆の溜息になってしまう。
たとえば、こんな一節。
「未熟な自意識と勘違いの自尊心が鼻についた」。
うん、そりゃ鼻につくな。たしかに。もっともだ。
でも。
自意識ちゃなんは、いつだって未熟なもんと違うんか。
成熟した自意識ちゃなんは形容矛盾でないんか。
自尊心ちゃなんも常に勘違いの産物でないんか。
勘違いでない正しい自尊心ちゃなんがあるんか。
なんて、ちょっと悪態をついてみたくなるのですね。(あまりよい性格ではないかもしれません)
てなことになるんで、そんなら文芸雑誌なんか買わなきゃよいのですね。
でも、買ってしまったのです。
なんでか、というと『すばる』9月号にはクンデラのエセーの翻訳が掲載されているからなのですね。

たまたま、なんですけど、今そのエセーを読んでいるのです。
            《Le rideau》という題名なのですけど、「カーテン」ってことですかね。
            クンデラお得意?の7部構成になってます。
梅雨の頃でしたか、ぼけぇとフランスの週刊誌を眺めていると(ロクに読めないから、ぼけぇとなる)、
読書欄にベストセラーランキングというのがあって、
そのエセー部門にクンデラの新刊がランクインしていたのですね。
ちょっと驚いてしまいました。
4月に新しいエセーが刊行されたのは知ってたんですけど、
いつか廉価版が出てから読めばいいや、と思っていたのですね。
その本がベストテン入りしている。しかも8週連続のランクインらしい。
へぇー、クンデラのエセーがねぇ・・・・と半信半疑になってしまいました。
日本でいえば、大江健三郎さんの本がベストテン入りするようなもんでしょうか。
でも。大江さんの本のなかには時事的なものもあるし、一般受けするものもありますよね。
だから大江さんの本がベストテン入りしても不思議でないような気もする。
特にノーベル賞受賞以後は。
一方、クンデラのエセーてのは、もうこれがほとんど小説論に終始するのですね。
んなもん読むほどフランス人は暇なんか。変わった国民だのー。
それとも、こりゃ日本でいえば東京堂書店あたりで調査したランキングなんだろうか。
そんならわからんでもないぞー。
とまぁ、そういう疑問を解決するために?紀伊国屋さんに注文しておいたのですね。

それが届いたわけです。甲子園から帰ってみたら届いてた。
で、腹痛に苦しみつつ、痛みを紛らわすためにボチボチと読んでたのですね。
まだ半分ちょっとしか読んでないんですけど、
今回のエセーもどうやら小説論に終始するようで、
これまでの『小説の精神』とか『裏切られた遺言』と同工異曲といってもいいかも。
まぁ、でもホップ、ステップ、ジャンプとムリに三段跳びしなくてもいいわけで、
こうして螺旋階段を上がったり降りたりしながら、
小説についての持論をあくことなく展開するクンデラって実はけっこう好きです。
それになんといってもですね、クンデラの文章というのは読みやすいのですよ。
普通、外国語を読む場合、ちょいとテコズルのが代名詞、ですね。
ありゃ、ありゃ、ありゃ、この代名詞は何を指しとるんだったかいな、と
小学校の国語の時間のようになってしまうことがある。
でも、クンデラはもともと仏語ネイティヴでないせいか、わりと丁寧に名詞を繰り返すのですね。
構文もそんなに難しくはない。
学校の第二外国語でフランス語をちゃんとやった人なら、たぶんそこそこ読めるでしょう。
                 相当イイカゲンな仏文科の学生だったタマゴが読めるくらいなので。
フランスでベストセラーになるってのも、クンデラという小説家の特異性のほかに、
読みやすいってこともあるのかもしれませんね。

でも、それが「わからん」のです。『すばる』に掲載されている翻訳で読むと。
載ってるのは第三部だけなんですけどね。
フランス語で読んでわかったつもりになって、ためしに翻訳を読んでみたら、これが「わからん」。
ええと、これがあそこにつながって、それで、ええと・・・となる。
高校でやる英文解釈ならぬ訳文解釈、ですね。
どういうこっちゃ、日本語よりフランス語で読んだ方がわかりやすいっちゅうのは。

翻訳されたのは西永良成先生ですね。
クンデラから全幅の信頼を寄せられている大先生で、
たとえば『無知』なんて小説はフランスでの出版より日本語訳の方が先に出たんじゃなかったか。
なんでや、なんでや、そんな大先生の翻訳が「「わからん」ちゅうのは。
タマゴの日本語能力に欠陥があるんか。
フランス語もたいして出来んっちゅうのに、日本語までも出来んのか。
と、自分を責めるのは精神衛生上よろしくないので、翻訳に問題あり、ときめつけることにしました。
もっとも、それは西永先生のせいばかりでなくて、
翻訳にやたら厳密さを求めるクンデラにも責任があるのかも。
西永先生はクンデラの意向にそって忠実に訳されただけかもしれませんね。

事実、翻訳の続きに掲載されている西永先生による解説は、
読むのが惜しくてまだパラパラ~と眺めた程度なんですけど、どうも秀逸なようですよ。
特に結び部分、大江健三郎やフェリーニを引き合いに出して、
「人生の『暮れ方の自由』」という観点でクンデラを論じてらっしゃるあたり、
さすが、とナットクしました。
先生曰く、クンデラのこのエセーでは「ピカソのような快楽主義的な悦楽、フェリーニのような快活な無責任さ、あるいは大江健三郎のようなユーモラスな晴朗さといった『暮れ方の自由』が充分に
発揮されていないように感じられる。」おお~、そうじゃ、そうじゃ。
「暮れ方の自由」、平たく言えば「老年期の身軽さ、身勝手さ」ということでしょうか。

以前から書こうと思いつつ、忘れてたのですけど、
クンデラの小説を読んでも、あまりユーモアというのを感じないのですね。
風刺とか皮肉とかは感じて、思わず苦笑いということはあっても。
もちろんユーモアが全くない、というわけではなくて、
このエセーでもユーモラスなエピソードが紹介されたりしてるんですけど、
たとえばバルザックを読んだときのように、笑いが止まらなくなる、ということはないのですね。
クンデラというのはけっこうキマジメな人なのでしょうか。
それとも、こちらのフランス語に余裕がなくて、クンデラのユーモアを感じられない、とか。
                          うん、その可能性は大いにあるな。

前にも書いたことですけど、クンデラは「作品統治」の傾向が強いように思うのですね。
「作品統治」というのは、今勝手に思いついた言葉なのですけど、
要するに、文章の隅から隅までコントロールしようとしてるように見える。
まぁ、コントロールしないとマトモな文章というのは書けないのですけれどね。
          コントロールできないとタマゴのようにワケのワカランものになってしまうのですね。
でも。コントロールしたはずなのに、どこか隙間というのがあって、
その裂け目が露呈するのがオモロイところだと思うのですね。
そこに作者の気づかない作者らしさというのが顕れるような気がする。

で、タマゴとしては、クンデラにはもっとハチャメチャなことをしてほしいのですね。
コントロールしているようでいて、どこか手を緩めてる、みたいなのでもいいです。
なーんだいや、クンデラ、こんなもん書きまわーって、ちゃっ、かなわんなー、困るがな、
てなことを思わせるものを書いてもらいたい。
そうだよね、クンデラらしいよね、というものよりは、
なーんだいや、クンデラ、これまでキャリアを無にするつもりかいや、
ちゃっ、たまらんなー、こんなもん書かれた日にゃーっ、というものを。

なんだかんだ言っても、タマゴはクンデラが好きなようですね、どうも。
実はちょっぴりクンデラと同時代に生きていて、
クンデラの新刊を読むことのできる幸福を感じたりしてるのですね。
大江健三郎さんの新作を読むのと同じように。

クンデラのこのエセー、おそらく年内くらいには集英社から西永先生の訳で出版されるのでは。
先生によれば、フランスでは15週連続のランクインが続いている、とのことです。
うーん、フランス人っちゅうのはよぉわからんモンらぁですわいな。読むか、こんなの、普通。

ああ、それにそうそう、そうだった。
この号には『すばる文学賞』の予選通過作が発表されていて、
思わずタマゴはeikohさんの名前を探してしまったのですね。
いくつか文学賞に応募されてると聞いてたので。
でも、『すばる』に応募されたかどうかもわからないし、
それに、よく考えたらeikohさんの他のペンネームを知らなんだです・・・・。


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変人以上⇒異邦人 [たまごの本棚]

後見人に「変人以上」と言われた首相も、ついに衆院解散に打ってでましたね。
国政選挙になると、タマゴはやたらコーフンするのです。
別に選挙運動したりするわけではないんですけども。
実はひそかに小沢ファンだったりする。
なんでも今回は政権交代の可能性もあるとやら。
12年前の非自民連立政権誕生のコーフンを思い出します。
あのときも、テレビに齧りついて、開票速報を見守ったもんです。
今日も、「ニュースステーション」を見たあと、「NEWS23」でも見るか、と思っていたら、
タマ妻に「熱闘甲子園」があるのに!と抗議されてスゴスゴ2階に上がってきました。
結婚して10年近くになるはずですが、タマ妻が高校野球ファンだったとは知らんかったです。

さて、先日、別に「変人以上」だから、というわけではなくて、ただ暑いから、という理由で、
A・カミュの『異邦人』を読み直してみました。(ようやく気が向いたのですね)
『異邦人』、タマゴは、語学的には仏語における『禁じられた遊び』だと思うのですね。
つまり、第一部は比較的易しい構文で書かれてるんですけど、
第二部はちょいと難しいところもある。ギターの『禁じられた遊び』もそうですよね。
タマゴは昔々、クラシックギターを弄っていた時期があるんですけど、
『禁じられた遊び』のはじめの方はなんとか弾けたものの、後半は弾けないまま終わりました。
今はもちろん全然弾けませんよ。アルペジオなんてできるわけがない。

『異邦人』、以前、サガンの『悲しみよ こんにちは』との比較で、
後半部分がちょっと・・・・と難癖をつけましたが、
今回はその難癖がホントにそれでいいのか、どうかを確認したいと思って読んでみました。

タマゴが感じてたのはですね、主人公のムルソーというのは、
表向きフツーの暮らしぶりのようにみえて、
世間一般の常識から見れば、まぁやはり「変人以上」のようなところがあるんですけど、
ああいう人が、死刑宣告の後、あんなに、ああでもない、こうでもない、なんて考えるのは、
ちょっとおかしいんじゃないか、ということだったのですね。
淡々と出来事が進行していく第一部に比べて、第二部は全般的に内省的なので、
そこで一種の転調が起こっている、と考えればいいのかもしれませんけど。

よくムルソーが殺人を犯したのは「太陽のせいだ」なんて言われますよね。
実際、ムルソー自身もそんなことを言っている。
でも、それはちょっとしたきっかけになっただけで、ムルソーは最初から、
生に対する倦怠感みたいなものを抱いてますよね。
まぁ、生と死の境界線が曖昧だと言ってもいいかもしれません。
相手を拳銃で一撃した後、特に意味もなく更に4発も打ち込んだりもする。
       この4発がムルソーの非情さを物語るとして、検事は厳しく非難するんですけど、
       4発の銃声、ちょっとベートーヴェンの5番シンフォニーの冒頭を思わせますよね。
そういう生と死の境界線が曖昧な人物が、死刑宣告の後、それを受け容れるのに、
あんなに苦労するもんだろうか、というのがタマゴの疑問でした。

実は、そうしたムルソーの内面の揺れが描写されてるのは、第二部のⅣとⅤのあたりで、
ここらへんは、全体を通してみても語学的にちょっと異質なのですね。
決してわかりやすい文章でない。わりと詩的な表現が多いような気がします。
去年読んだときも、ちょっとこのあたりで語学力不足のタマゴは戸惑ってしまったんですけど、
今回もその点、大差ありませんでした。(ということは語学的に進歩してないってことですね)
で、少し翻訳を参照してみたんですけど、これがまた翻訳を読んでもわからん。
つまりフランス語でわからんもんは日本語でもわからんということですね。
これでは、タマゴの難癖がええのか悪いのか、判断は保留せざるを得ないです。
ただタマゴ的には、ムルソーに何も考えず、
従容として刑場に赴いてもらった方が納得できるような気がするんですけど。
                翻訳を参照したついでに、文庫本の奥付付近のメモを見て一驚。
                なんとタマゴは学生時代にこの翻訳を2度も読んでいたのです。
                そんなこと、きれいさっぱり忘れてましたがな。

今回読み直してみて面白かったのは、一年前に読んだときには素通りしてた箇所で、
いろいろ気づく点がけっこうあったことです。へぇー、こんなところにこんなことが書いてあるなんて。
ちょっとはっきり覚えてないんですけど、たしかétrangerっていう単語が出てきたのは、
ムルソーが世間一般を指して言ったときだけだったような。
つまり、世間一般から見てムルソーが「異邦人」なのではなくて、
ムルソーから見て、世間一般が「異邦」なのかも?なんて思ったりしました。
まぁ、これは記憶が定かでないので、例によって不確かな想像ですけど。

それにしても。へぇー!あれ?なんて箇所がたくさんあるので、
前回はいったい、何を読んどったんかいな、と思ってしまいました。
でも、そういうのが同じ本を何度も読む愉しみで、
来年の夏もまた『異邦人』を読んでみようかなー、なんて思ったりしました。
今度は短絡的に久保田早紀を聴きながら、なんてのもいいかも。


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グイグイ押して行くのです。 [たまごの本棚]

ちょっと寝てました。なんだかドーッと疲れが出まして。
チャングムが終わったあたりで寝ちゃったみたい。
たぶん、ここ数日、慣れないことをしてたせいでしょう。

無意識裡に疲れを癒したかったのか、
学生時代の友人、TJ君に誘われて但馬の城崎温泉へ行く夢を見てました。
ま、行く前に目が覚めたんですけど。
で、目覚めてなぜか「グイグイ押して行くのです」なんて文句が浮かんできました。脈絡なしに。

「グイグイ押して行くのです」。漱石先生の言葉ですよね。
講演のどこかでそんなことを言っていた。(どの講演だったか忘れましたけど)
なんていっても、タマゴは漱石先生のよき読者では全くありません。
「明暗」なんて読んだこともないし、読む気もない。「こころ」ですら読んでない。
好きなのは「三四郎」。もっとも最初は柔道の話だとばかり思ってましたけど。
「猫」は小学校の朝の10分間読書のとき読んで、チンプンカンプンでした。
なにしろ「細君」というのは「細」という名の男の友だちだと思ってたくらい。以来、読んでない。
「坊ちゃん」だって、小学校のとき読んで、あとは道後温泉の宿にあった文庫本を
つれづれなるままに読んだくらい。(しかし、ありゃウマイね。やるな、漱石)

で、漱石がそれほど好きってわけじゃないのに、なんでそんな文句が浮かんできたかというと、
まぁ、こりゃ強制的に読まされたからですね。
高校生のとき、途中で俄かに国語科の教育方針が改まって、
タマゴたちのクラスは教科書をやらなくなったんですよ。
なんでも「ヴァリエーションなんか読んでも仕方ない」とのことで。
で、選ばれたテクストが和辻哲郎「風土」と漱石先生の講演「現代日本の開花」「私の個人主義」。
これを半年間かけて精読した。班分けなんかされて、全部生徒が発表した。
ありゃ、先生は楽だったでしょうね。半年間、授業らしいことをしなくていいんだから。

タマゴはそのとき、漱石先生のご意見に妙に感化されてしまったのですね。
「日本の文明開化は外圧によるもの、外発的なもので、自らの内から欲求された内発的なものでは
 ない。つまりマヤカシ」てなことを漱石先生が言うもんだから、そうだ、そうだ、と賛同してしまって。
以来、自分からやってみよう、と思わないことは全然しなくなった。「自己本位」でいこうと思った。
スゴイ誤読、勘違いですね。オソロシイ。負の教育効果だ。
こんなことでは無事に社会生活が送れるわきゃ、ないですね。
だから、本を読むことは決していいこととは限らない。下手すると道を踏み外すオソレもあります。

ま、でもそれは読み方の問題であって、事実、そのとき教わった生徒のうち、
道を踏み外してるのは、タマゴくらいなもんです。ほかのみなさん、順調でメデタイかぎり。
で、「グイグイ押して行くのです」ですけど、なにをグイグイ押すのか、忘れました。
まぁ、自分の思うところを多少の障害にもメゲズ、グイグイ押していく、なんてことだったかも。
でも、虚弱体質のタマゴは、「グイグイ」なんてのはちょっとムリそうなので、
せいぜい匍匐前進といったところでしょうか。実際、寝そべっていることが多い、です。


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サガン女史の「悲しみよ こんにちは」 [たまごの本棚]

暑くなると観たくなる映画があるように、暑くなると読みたくなる本もありますね。
去年の今頃は、カミュの「異邦人」を読んでました。
なんだか文学少年みたいですけど。

今年は本格的に暑くなったら、サガンの「悲しみよ こんにちは」を読んでみようと思ってたので、
早速かねて用意の本を開いてみました。なんだか文学少女みたいですけど。
本の表紙には、海を見下ろす物憂げな少女の絵が描いてあって、ちょっと恥ずかしかったです。

そういえば、サガン女史、去年の9月に亡くなったんですよね。
この前、NHKで瀬戸内寂聴さんがサガンを偲んでフランスを旅されてる番組がありました。

「悲しみよ こんにちは」を邦訳で読んだのは十代の頃だったので、もう忘れてました。
最後に死んじゃうのは、父親のガールフレンドのどちらの方だったっけ?なんて。
全体的にはそれくらいの印象しかなかったんですけど、書き出しの一文は当時も今も好きです。

《Sur ce sentiment inconnu dont l'ennui, la douceur m'obsèdent, j'hésite à apposer le nom, le beau nom grave de tristesse.》
朝吹登水子さんの訳では、
「ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名を
 つけようか、私は迷う」ですって。 エレガントで、よくこなれた訳ですね。

二十歳過ぎの頃に読んだ英訳はこんな風になってました。
"A strange melancholy pervades me to which I hesitate to give the grave and beautiful name of sadness.”
あれ?あれ?あれ?
英訳だとちょっと感じが違うことってよくあるんですけど、
この場合は原文の調子をよく移してる、とずーっと思ってて、それで書き写してみたんですけど、
こんなことになっとったんかー。ずいぶん違うがねー。構文も違うし。

「ものうさと甘さ」の混じる感情を、英訳ではあっさりと「メランコリー」のひと言でまとめてますね。
そんなら、「悲しみ」という重々しくもビューティフルな名前をわざわざつけなくてもいいですね。
すでに「メランコリー」と名づけてますがね。
       どーも、「ビューティフル・ネーム」とか言われるとゴダイゴを思い出していかんです。
それに「つきまとって離れない」ってのと、「「浸透し、広がる」ってのは、ちょっと違いますよね。
できればこうした感情から解放されたいのだけれど、
それでもそうした思いがどうしても湧いてきてしまうんです・・・。一種の強迫観念、ですね。
だもんで、原文では「つきまとって離れない」という動詞を使ってるんでないんか。
「浸透し、広がる」では、主人公のそうした感情に対する抵抗感が出んではないか。
うーん・・・・。そうだったんかー。これまで気づかんかった。

どうも話が細かいですね。これも、ひとえにタマゴの人間性が狭小なせいかもしれません。
このところクンデラばかり読んでたら、翻訳を呪詛するクンデラの癖が感染したみたい。
マズイなー。ええでないの。細かいことは気にせず、どーんと構えれば。どーんと。

それにしても朝吹さんの翻訳は原文に寄り添ったものですねー。さすが。
全体的にはちょっと古めかしいところもあるようですけど(たとえば「お父様」なんて)、
まぁ、その時代の日本語はそんな感じだったのかもしれないですね。
朝吹さんの翻訳は、サガンを日本語に移植した、というよりは、
サガンを日本語で呼吸した、って感じがします。
サガンが日本語で書いたら、こう書くだろう、みたいな。朝吹さん、スゴイ。

実は、今回、読みはじめて、サガンのちょっと気取った文体に戸惑ってしまったんですねー。
クンデラばかり読んでたせいかも。(と、またクンデラのせいにしてみたりする)
けーっ、フランスのティーンエイジャーの書いた、おマセな小説をなんで読まないかんのじゃー。
ガキの書いた小説なんか読みとうないわー、なんて八つ当たりしたりして。
                    って自分で勝手に選んで読んでたんですけど。
でも、読んでるうちにだんだん興がのってきてしまって、最後のあたりは残りのページが惜しくて、
読むスピードをグッと落としたりしてしまいました。
                 別に意識してそうしなくても、すでに充分遅いtっちゅうに。
特に最終章はよかった、ですね。
アンヌ(父親のフィアンセ、ですね)の死にそれぞれ責任を感じてたはずの父娘が、時を経ずして、
元のように、あっけらかんとしたケセラセラの生活に戻ってしまう。
でも、時折、例の感情(「悲しみ」)が湧いてきて、娘を苛む・・・・。
うーん、なんだか、リヤル、ですね。たしかにそういうことってありますねー。
ちょっと池波正太郎さんの
「人間はいいことをしながら悪いことをする。悪いことをしながらいいことをする」を思い出しました。
この最終章がなければ、「悲しみよ こんにちは」はフツーの小説になってたかも。
タマゴはずーっと遠いフランスでのお話ということで他人事のように読んでたんですけど、
最終章で、この小説をグッと身近に感じてしまいました。おお、タヴァリーシチ!なんて。

この小説の舞台は南仏地中海沿岸ですけど、
「異邦人」はその向こう岸のアルジェリアを舞台にしてますね。
地中海をはさんでサガンとカミュが向き合っている光景を、ちょっと想像しちゃいました。
どちらも夏の出来事だし、太陽の心理的影響も大きいし、二部構成というのも同じだし。
もっともタマゴは「異邦人」の第2部、特にその後半に少し不満があるのですね。
サガンが最終章で小説をワンランク上に昇華させた、とするならば、
カミュは後半でダメにしちゃったような気がしないでもないです。
でも、それは去年読んだときの印象なので、読み直してみると、そうでもないかも。
気が向いたら、また読んでみることにしますね。
それにしても。どーもタマゴの読むものは、いつも時代遅れのような気がしてならない、です。
そんな思いが「つきまとって離れない」です、なんて。


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